新市長誕生に至る安芸高田市激震の過去
記憶に新しい”河井事件”は2019年の衆院選において当時自民党所属の河井案里を当選させるため、夫で大臣経験者でもある河井克行を主犯格とし河井案里と共謀して安芸高田市を含む複数の市町首長や議会議員を買収した公職選挙法違反事件である。
この事件をうけて空席となった安芸高田市長の座に新たについたのが同市出身の石丸伸二氏。
大手銀行マンとしてニューヨーク駐在の経験もある石丸氏は、市政改革の必要性を訴えて同市長選に立候補した当時の副市長を退け新市長の座に就いた。
現職議員によるショッキングな買収事件の舞台となった安芸高田市において、政治改革の期待を一身に背負って誕生したのが石丸市長である。
議会での居眠りや恫喝問題を経て議会との対立は順調に泥沼化
SNSによる発信で「市政の現状を広く市民に知ってもらいたい」と考える石丸市長は市議会での議員の居眠りをTwitterで指摘。
これに反発した議会数名は石丸市長を呼び出し議会を無視した”告げ口行為”に対して注意を促したが、この件で石丸市長はさらに「恫喝された」と発信したことで波紋を呼び、恫喝の有無を巡って裁判で争うまでに問題は深化している。
この議会の対立は政策議論、議会運営にも影響し、政策の是非よりも”市長派”か”議会派”かのパワーバランスのみに依存した市政は”もはや市民を置き去りにし市政が滞っている”との批判が聞こえるまでに発展している。
なお市長と議会の対立の経緯については各メディアで取り上げられているが、広島ホームテレビが制作したドキュメントが比較的中立の立場で取材されていてわかりやすい。
問題の原因は世代間の固執した価値観と老老選挙
安芸高田市に於ける市長と議会の対立に関する詳細の正誤、善悪についてはこの場では言及しないが、対立の原因を大きく捉えるならばそれは”世代間の固執した価値観”であり、安芸高田市に限らず日本全体、政治に限らず社会全体に存在する形の見えない”重し”であると言える。
議員グループに存在する『掟』
動画内でも登場する『掟』という言葉は当人同士でも決して明文化されることのない謂わば”同調圧力”のようなものであろう。
この形のない圧力に逆らえず、議会の対立に疑問を持つ議員でさえ自身の考えよりも”議員グループの指針”に従わざるを得ない。
ではなぜこのような同調圧力が生成されるかといえば決して悪意によるものではなく、立場によって醸成される善意によるものだから余計にたちが悪い。
議員グループによる善意
安芸高田市議会議員のなかでも議会の中枢を担う年配で当選歴の長い数名をドキュメント内では”議員グループ”と呼び、市長と対立する勢力として位置づけている。
では、この議員グループの行動原理、思考の発端はどこにあるかと言うと『歴史と自負』に他ならない。
代弁するならば
「我々古参議員は今までの市政を支えてきた功労者であり、これからも我々の定めた方針に従って粛々と市政を運営していくべきである。」
といった具合であろう。
孤立無援の市長に対して多勢の議会側が”悪”として報道されるシーンは多く見かけるが、当然この考え方は安芸高田市を滅亡させようという悪意ではなく、これまで通り波風立てず平穏にやっていこうとする善意である。
そしてこの善意に対して変化をもたらそうとする改革派の市長は”掟に従わない悪”であり、排除すべき対象となる。
石丸市長の善意
では、対して改革を推進したい石丸市長にとっての善意の源がどこにあるかと言うと”市の存続”にある。
安芸高田市はもともとは異なる6つの町であり、これらが合併して2004年に誕生した市である。
言い換えればこの地域は単独では存続できない過疎に見舞われた地域であり、安芸高田市となった今もなお人口は減少し続け、2020年時点で65歳以上が42%を締める超高齢地域である。
石丸市長がこの安芸高田市に対して『滅びゆく我が故郷を存続させる』という目標を掲げて立候補したのは紛れもない善意である。
この善意に対して、確実に滅びゆく未来に対して有効な施策も打てず助成金頼みで赤字を垂れ流す旧態依然とした安芸高田市議会は”悪”であり、その膿が河井事件という形で噴出したのだと考え改革を訴えるのはもっともなことである。
もちろんこれまでの市議会及びここで言う議員グループが何もしてこなかったわけではないが、思い描く安芸高田市のイメージとそれに向かう変化の曲率が市長と議会間で大きく食い違っていることは確かであろう。
お互いが譲れない善意によって動いている
市長と議会、お互いがお互いの善意によって行動している以上、主張はぶつかるばかりで交わることはない。
どちらの考えが正しいかを計るために善意のバックボーンを考えるのであれば、議会グループは『選挙によって選ばれた』という民意によって支えられており、市長は『厳然たるデータ』に支えられている。
市長がデータを盾に改革を訴えても議員グループは民意を持ち出してこれを退けるのだから、お互いの議論はそもそも同じ論点を持たない。
正常な新陳代謝をもたらさない老老選挙
本来は選挙がすべてを決する手段なのだが
このような政治的な”捻れ”を解決するのは本来、選挙による民意である。
が、そこには年齢分布の偏りや情報格差が絶対的に存在するため本来の機能を果たしていない。
代表的な例としてよく言われるのは、高齢の有権者は立候補者の過去の政策の是非や思想、能力といった情報ではなく、知名度や議員歴だけを見て投票先を決めているという老老選挙問題である。
「長年議員として頑張ってくれている」「先代からよく知っている」といった、本来は本人の能力評価とは結びつかないはずの”時間”だけが評価軸として優先されてしまい、結果として高齢の有権者によって高齢の議員が支えられ当選に有利に働いてしまう。
さらには有権者の高齢化がすすむことで高齢者票が多数を占めてしまい、議会における時間=議員歴がパワーバランスの大部分を担ってしまう。
この老老選挙が若年層の政治への興味を削ぎ、新規参入の障壁を高くし、新陳代謝の機会を奪ってしまうのである。
河井事件で辞職した元議員の再選
安芸高田市の老老選挙をもっとも顕著に証明しているのが2020年市議会議員選挙での先川和幸氏の再選である。
先川氏は2019年の河井事件で現金の受領を認め、議員を辞職した張本人であるが、それが事件の記憶の風化も待たずに2020年の市議会議員選挙で再選を果たしたのである。
であるならば安芸高田市において、むしろ改革を推進する石丸市長の当選のほうがタイミングだけに依存した例外だったのではないか、この超高齢社会はそもそも変化など望んでいないのではないかと思ってしまうほど、部外者から見れば信じられない選挙結果である。
対立は時間が解決するが本質は変わらない
安芸高田市に於ける市長と議員の対立問題に関して、筆者個人的には市長側に肩入れしたいところではあるが、ドライに言えばおそらく以下のような解決を見る。
①市民が改革に疲れて波風立てない新市長を選ぶ。
②現議員グループ及びこれを支持する高齢有権者が寿命をむかえる。
時間軸が短いのは①で、河井事件による一時的な熱が冷めてしまえば平常運行の老老選挙にもどり、議員グループとうまく話を合わせられる次期新市長が誕生する可能性はかなり高い。
もっと長い時間軸で考えれば②になるが、その頃にはあらたな高齢者層が形成され若年層との価値観のズレに悩むことになる。
日本全体が安芸高田と同じ問題に直面している
世代間の価値観のズレと老老選挙の問題は安芸高田市だけに限った話ではなく、当然その他の自治体も、国政においても同じ問題は起こっている。
”民意”というのは未熟で不確かなものである。
社会全体が成長傾向にある時代ではある種の”熱”を帯びることで諸問題が霞むような勢いを発揮するが、全体が衰退傾向にあって熱も勢いもない現代社会に於いてはちょっとしたズレが埋まることなく拡大し続ける。
少し大げさではあるが、日本が、そして世界が直面する民主主義の限界と言ってもいいのかもしれない。