生徒のためだからと理不尽な長時間労働に耐える事で公立教員は待遇改善と教育改革のチャンスを自らドブに捨てている

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最高裁で棄却された理由は自発的行為

埼玉県の公立教員が常態化する長時間労働に対して残業代の支払いを求めた裁判は、最高裁で敗訴という決着に至った。

理由としては、常態化する長時間労働のうち大半を占める業務は教員の自発的行為にあたり、給特法の定めに従って業務監督者である校長が指示する業務にはあたらないというもの。

“自発的行為”にあたる業務には教材研究や小テストの実施採点、ノートや提出物の添削、保護者対応、清掃時間外の整理整頓などが含まれるとされ、これらは教員の自発的な無償サービスであり教員本来の業務には含まれないという判断である。

逆に言えば教員が本来すべき業務は毎日の授業と定期テストの実施採点、成績査定、職員会議くらいのもの、ということになり、それ以外の雑務全般はやらなくても良い(むしろ無償なのだからやるべきではない)業務ということになる。

なお一般的には労基法上の残業は労働時間に沿って判断され、不当、不正な業務でない限り業務内容の詳細について問われることはないのだが、教員の労働に関しては労基法は適用されずあくまで給特法の範囲で判断された形。

さらには以降同じような訴えを他の公立教員が起こしたとしても、この判例に沿って判断される限り教員の残業代が支払われることは基本的に無いということになる。

司法の場では認められなかった

最高裁の判決を受けて、多くの教員は「必要な業務なのになぜ?」と憤ることだろう。

授業の質を上げるための教材研究であり、生徒の学力を向上させるための小テストや提出物の添削であり、これらを放棄したら学校教育が成り立たないじゃないかと。
こんな具合だから日本の教育が廃れるのだと。

だが、これはあくまで司法の立場の正義だということを忘れてはいけない。
そして司法で認められないなら立法に訴え、法を変えれば良い。

声を上げるからシステムが最適化される

「自発的な残業はしません」
「この業務は私の仕事ではありません」

明日から教員全体がこのように声を上げたらどうなるだろうか。

もしかしたら一時的に生徒の成績が下がるかもしれない。
授業がストップするかもしれない。
そして学校側、さらには教育委員会や自治体、文科省に保護者からの苦情が殺到し、マスコミが取り上げて大問題になるだろう。

でも教員にとって保護者対応はあくまで自発的行為であり正当な対価を伴う業務ではないのだから、ここでも「私の業務ではありません」ときっぱり拒否できる。

結果、すべての対応は学校側及び運営する自治体、文科省の責任において処理する必要に迫られ、残業代の線引や業務の切り分け、アウトソーシングなどあらゆる可能性において解決策を探り、最終的に教員が働きやすい環境に変わっていくのである。

付随する諸問題も同時に解決に向かう

さらに言えば、教員の待遇が改善されることで“責任だけが重く報われない職業”から“責任に応じて報酬も高い職業”に変わり、優秀な人材が教員を目指すようになる。

そして教員不足は解消し、教員採用の倍率が上がることで教員のレベルも上がる。

教員不足が解消して人手が増え長時間労働の解消によって教員が本来すべき”生徒のための教育”にリソースを割けるようになれば、教育の本来の目的である生徒の学力が向上する。

教員の待遇が改善しない本当の理由

少し考えただけでも教員の待遇改善による好影響がこれだけ予測できるにも関わらず、なぜ改革が進まないのか

それは教員自身がすべての出発点であるはずの”声”をあげず、”行動”を起こさないからである。

根性論と年功序列に押さえつけられ”耐え忍ぶ”ことが美徳とされた古い日本人の気質を捨てられないからである。

すでに”自己犠牲”ではなく”権利を主張”しなければ生き残れない時代だということに気付いていないか、気付いていても変わる勇気がないからである。

正直なことを言えば、民間企業で声を上げることは難しい。

民間企業において上の意向に背くことは自身の身の置き場を無くし、退職に追い込まれる可能性を孕む。

が、公立教員は正当な主張をしただけではクビにはならない。
職場で疎まれたとしても数年に一度は学校が変わるのだから人間関係のリセットもできる。

定年間近の教員がキャリアの最後に意を決して声を上げた今回の裁判でようやく問題が表面化したのだから、次に行動を起こすのはある程度経験を積んでこれからの教育現場の主役となるであろう中堅教員でなければならない。
新しい価値観はあっても影響力が少ない若年層ではなく、影響力を持ったベテランが価値観を刷新するべきなのである。

悪法を作ったのは当時の間違った立法府だが、その悪法の維持に協力しているのは”生徒のため”という理由で自分を犠牲にしている教員自身であるということを認識しなければいけないのである。


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